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虹技(株)の歴史と地域とのかかわり

―虹技の歴史と地域とのかかわり―

 

皆さん、こんにちは。初めまして、虹技株式会社:社長の山本でございます。

日頃、この地域の皆様には、虹技の企業活動の上に、多大なご協力、ご支援をいただいており、高いところからではございますが、御礼申し上げます。ありがとうございます。

本日は、弊社の歴史とこの地域の関わりについてお話させていただきますので、よろしくお願いします。

 

では、まず、虹技の現状について

ここで、弊社の簡単なP.Rのビデオを見ていただきます。

P.Rビデオを放映する(約12分)

 

虹技は、大津区勘兵衛町に本社と東工場、吉美に西工場があります。東西あわせて約10万坪の敷地で生産活動を行っています。従業員は、国内で営業所等の出先機関を合わせて500人程度 海外にも工場をもっておりまして、主に中国ですけれども250人程度で内外合わせて750名弱の企業でございます。また、東京証券取引所スタンダード市場に上場している企業です。

売上規模は、2023年3月期が連結で約267億円 国内個別では186億円の売上規模です。

主には、マンホール等の銑鉄鋳物関連で7割を占めますが、残りの3割は環境関連等それ以外の分野です。

製造業として、多分に漏れず収益という面では苦労しておりまして、利益率はそんなに高くありません。もしご興味がありましたら、弊社のホームページをご覧ください。

社歴で言いますと、2016年に創業100周年となり、今年で107年目を迎えております。

 

・次に虹技の歴史についてお話します。

 

弊社の発祥は、神戸の長田です。ご存じのように旧社名を神戸鋳鉄所といいます。1993年に“虹技”という社名に替えました。鋳鉄所というのがいかにも古めかしく、リクルートにも影響があるとの意見もあり、前堀田社長が38歳の時、役員として弊社に入社してから社名変更プロジェクトを立上げ、約一年の歳月をかけて今の社名に替えました。

虹の様に輝く技術を持つ会社という意味です。その七色である七つの技術とは、「融体加工技術」、「粉体加工技術」、「流体技術」、「環境技術」、「省力・省エネ技術」、「エンジニアリング」、「複合化技術」の七つです。1993年という年が、虹技の創業77周年ということもあり、7という数字になぞらえて虹を用いたのです。替えた当時は馴染めなくて、お客さまからも「中華料理屋を始めたんか?」みたいなことを言われ、からかわれた事を思い出します。また、手形の宛先が、“虹”ではなくて“紅”になっていたり、技術の「技」ではなくて、「枝」になっていたこともありました。10年ほどは名刺にも旧社名を入れていましたが、その社名も板についてきて、最近では旧社名をご存じない方の方が多いです。

 

弊社は、西暦1916年、大正5年に神戸で創業しました。

創業した経緯は、資本参加していた山田鋳工所という会社が事業を投げ出し、それを受継いだことです。当初は自転車用部品等を鋳造していましたが、鋳型(インゴットケース)を製造し時代の波に乗っていきました。川崎造船所の一般機械鋳物の下請け仕事をやり始めて事業を軌道に乗せ、大正8年には、神戸製鋼所より、2t鋳型の受注に成功します。昭和12年には、播磨工場(現西工場)を吉美に建設、太平洋戦争の戦後の復興で需要に供給が追い付けなくなったことで新たな工場建設を考えていました。ベストの条件は、直接溶鉱炉から溶湯(溶けた鉄)を買えるところです。そこでこの辺りを探索していたところ、当時の富士製鉄:広畑製鉄所の第四高炉から川を隔てたところに空地を見つけました。そして、その地に現在の東工場を建てることになった、と社史には書いてあります。また、その空地を発見した時の喜びは生涯忘れえぬものだとも書いています。

ところで、皆さんは、鋳型というものをご存知でしょうか。鉄筋バーとか線路のレールとか、大きいものになると、発電所のタービンの軸であるとか。鉄製品というものは、鉄の塊を叩いたり、伸ばしたりして色んな鉄製品になります。その最初の工程である鉄の塊を作る入れ物が鋳型です。ただ、近年、その鉄の塊を、鋳型を使わずして連続して作れる設備が発明されました。それ以降、鋳型というものは、少量多品種の特殊鋼や、塊を叩いて作る鍛造品を生産する工程のみ採用されるようになったのです。

 

東工場ができたのが、昭和36年です。広畑製鉄所から鉄道を敷いて、鉄橋を作り、東工場に溶けた鉄を引き込んでいました。平成の初めころまでは、実際に鉄橋を溶けた鉄を満たした数十トン入りの鍋が渡っていました。工場内には今でも線路が残っています。また、鍋を牽引していた機関車は、鉄道マニアのレアな対象になったこともあります。

画して、北は、新日鉄室蘭から、南は新日鉄八幡まで、鋳型の商売でたいそう繁盛しました。

現在、鋳型の生産量は、月当たり800トン程ですが、昭和40年代前半に月当たり18,000トン生産したという記録が残っています。今の二十倍以上です。

神戸鋳鉄所が“ボロチュウ”と言われて、月に二回の給料が出て、ぼろ儲けをしていた時代です。瀬戸内沿岸でボロいのは、神戸鋳鉄と東洋工業:現在のマツダの二社だ、と言われた時代がありました。ちなみに私は昭和57年(1982年)入社なのですが、その時は、工場がボロボロなので、最初に言われていた意味とは真逆で、ボロチュウと言われている、と先輩から言われたことがあります。

その後、会社をオイルショックが襲います。先ほど申し上げた技術革新で、鋳型が不要になる連続鋳造という設備を鉄鋼メーカーが導入し、減産に継ぐ減産、ついには、リストラという事態にまで追い込まれました。

昭和51年と53年の二回に渡り、人員整理が行われました。

この地域でも、この影響を受けご苦労なさった方がおられると思いますが、そんな苦難の時代を越えて今の虹技があります。このことは、いつまでも従業員の心に植え付けておかねばならないと思っています。

あれから四十数年が経ちました。

その間には、社名変更二年後の1995年に阪神淡路大震災があり、2001年には、西工場で死亡事故を起こし、その後の不況にも喘いで2004年には、創業の地である神戸本社を手放すことにもなりました。

 

しかし、創業当時からすると、鋳型に代わる鋳物の商品群も育ちました。ビデオで見ていただいたように、鉄鋼会社に納めるロールや、自動車の板金プレスの金型、マンホール等です。近年は、海外進出も果たし、中国で二拠点、インドネシアで一拠点金型鋳物の工場を稼働させています。また、鋳物以外の分野では、機械や環境プラントの売上拡大をしてきました。来年の3月には、八丈島で、建設費約38億円のごみ焼却場を完成させます。

全社として、今年度の計画は、約287億円の売上高を見込んでおり、これは過去最高の売上額となる計画です。

 

・それでは、次に地域との繋がりについて、お話しします。

 

皆さんは、映画館で放映されている虹技のCMをご存じでしょうか?

屋台と檀尻が登場してきて、工場や製品のP.Rは一切しておりません。これは私が全てプロディースしたものです。

「地域と共に100年企業」というセリフを最後に入れています。

なぜ屋台や壇尻なのか?私の中では、祭りは“地域の伝統”であり、“誇り”なのです。

以前、虹技に研修の講師をお願いしていた広島にお住いの先生の言葉です。

「虹技の方は、いざという時の団結力がすばらしい、これは地域コミュニティーに根ざしており、祭りが無関係ではない」と言われました。

私は、この“地域の誇り”と同じ様に“会社”を“誇り”にしたい、と考えています。“誇り”の持てる会社”です。例えて言うと、「自分の家族を入社させたい」とか、地域の方々から「立派な会社にお勤めですね」っていわれるような会社にしたいということです。

その為にまずなすべきは、まず地域の方々に虹技を良く知ってもらうことです。今回このような会で話をさせてもらうことは会社をP.Rする上では有効でありがたいことです。

最後になりましたが、これからも地域に根ざした企業として、「誇れる」「立派な」会社になれるよう、精進していきますので、今後も地域の皆様方には、ご愛顧、ご支援、ご協力のほどをお願いいたします。

取り止めのない話でしたが、虹技と言う会社を少しでもご理解いただけましたら幸いです。

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